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1998.3月版


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1998 3.31 歩けない
救急でみてもらったときは特に異常なしということで家に帰って来たのですが、歩けないし頭や頸椎のことが心配だったので、昨日脳外科に一日検査入院しました。麻酔をかけて、X線写真、CT、MRIなどを撮影しました。結果、脳外科的にはどこも異常なし..歩けないけれど足も左右とも力が入って動きも良いので整形的にも異常はないとのことでした。あれだけの高さからアスファルトにたたきつけられたのですから奇跡です。
でも歩けないのです。立たせても足が絶対に前に出ないのです。その場で床にはいつくばってしまうのです。整形や脳外の先生はどこか打ち身があって痛いか、精神的なものだろう..。というのです。転落したときの前へ踏み出した一歩が空中で..そのまま落ちていった時の恐怖が忘れられなくて、歩くときの一歩さえも踏み出せなくなっているのかもしれません。これから先どうなるのか不安です。かけっこ、トランポリン、ジャングルジム..あんなに活発だった友里なのに..。



1998 3.29 友里が2階の窓から落ちた
本当の話です。きょう午前中麻里奈と美穂が茶の間でテレビを見ていたので、「あれ?友里は?」と聞いたら、美穂が「友里ちゃんピコで遊んでる」..というので様子を見に行ったら、子供部屋の窓が開いていて友里がいません。開いた窓から下を見ると、友里がアスファルトの上にころがっていました。大声を出す余裕もなく下へ駆け下りて友里を抱き上げると大声で泣いて私にしがみついてきました。生きていました。そして意識もはっきりしていて大きな外傷もありません。急いで救急車を呼んで病院に行き頭と胸のレントゲンを撮りました。骨も折れていませんでした。もうどうしてよいのかとにかく涙ばかり出てきて..今は友里は眠っています。頭に外傷はありませんでしたが、2〜3日は安静にして経過を見て下さい..とのことでした。
2階から堅いアスファルトの上に転落して、顔の横と手のひら、腕に軽い擦り傷があるだけなんですよ..友里は受け身の天才です。窓を開けた麻里奈のことをせめるわけにもいかないし...まだ油断はできませんが...たいしたことはなさそうです。
お父さんはまだ熊本から帰ってこないし..でも..大丈夫だよね



1998 3.26 へろへろに疲れた
うう こんなんであと1ヶ月ももつのかなあ..
おまけに明日午後はお父さんもいないんだよ...
私って歯医者さんだからこうやって働いているけど、もし歯医者さんじゃなかったら、こんなふうに働かなくてもいいんだよね..。良かったのか悪かったのか考えちゃうなあ..。



1998 3.25 平山先生がモーグルで...
平山先生がモーグルで鎖骨骨折してしまいました。あした手術だそうです。少なくとも1ヶ月は仕事ができそうにありません。きょうから私は朝から晩までフルで歯医者さんです。その上金曜日はお父さんが午後からいないので1人で診療です。4月は入学式もあるし..バイオリンの発表会もあるし困ったなあ..友里が元気でいてくれればなんとかなるかなあ..。まったく..いい歳してモーグルなんてやるもんだから...ヽ( ´ー`)ノ



1998 3.23 義弟の結婚式
昨日はお父さんの弟の結婚式でした。
いやあもう、それは朝から大変でした。でも金曜の夜友里が吐いてどうなることかと思ったけれど、元気になってくれて助かりました。
朝ご飯を食べてかたづけて、午前11時に車で札幌の式場へ向かいました。式場のホテルに着いたらまず私は留め袖の着付け..その間にお父さんと子供達はホテルで軽い食事をしました。着慣れないものはほんと疲れるものですよね..足袋がきつくて履いたとたんに頭痛がして薬を飲みました(^-^;)
午後1時半からは結婚式..友里が騒ぐかと心配したけれど、私とお父さんのだっこでなんとかクリアー!雅楽が生バンドだったのが友里には面白かったのか真剣に見ていました。
結婚式がおわったあと披露宴まで時間があったのですが、その間に余興のリハーサル(^-^;)
披露宴は3時半から始まって..案の定、祝辞は友里には我慢できなくて、会場の外でお散歩して..でも乾杯が終わったらすぐ私達の出番。美穂のピアノ+麻里奈と美穂のピアノ連弾+麻里奈のバイオリン(私がピアノ伴奏)だったのですが、できはまあまあ(^^)v 私の方が緊張して伴奏をとちってしまったりして..子供達は堂々としていました。
さて最後のイベントは友里の花束贈呈だったのですが、そのころには友里はもう眠くてくたくた..お花を持って立っていることもできません..で美穂に代役をやってもらいました。おかけで、ご褒美に新郎から、おやつのいっぱい入ったキティちゃんのリュックをもらって美穂はご機嫌!で
..まもなく友里はだっこでねんねしてしまいましたが、私留め袖なのよねえ..あとで見たらよだれやらケーキやらで、留め袖がシミだらけ..もうしばらく着ることもないのでクリーニングにだすことにしたけれど、クリーニング代結構高くつきそう(^-^;)
披露宴が終わったら、6時過ぎ..うちに着いたら8時半をまわっていました..ああ疲れた。



1998 3.18 ランドセルが欲しい..
美穂が保育所を卒業しました。5年11ヶ月は最長の入所期間だったようです。卒業式はもう終わったのですが..さすが保育所3月いっぱいは面倒をみてくれるそうです。
わがままな長女と障害を持つ三女にはさまれて、美穂は小さい頃から苦労人でした。保育所でも面倒見が良くて、友里はもちろん小さい子の面倒を良くみているようです。
麻里奈が小学生になったとき、立派なランドセルを買ったのですが、ほとんど使わず新品のままあったので、美穂もいらないかな..と勝手に決めていたのですが、「ね ランドセル買って、おねえちゃんのおさがりはやだよ」と美穂に言われて..あ また我慢をさせてしまうとこだったと反省し...今頃になってランドセルを買いにいくことになりました。あした美穂と二人で札幌のデパートに行ってきます。思えば美穂と二人でゆっくり話をしたこともありませんでした。美穂と二人でお出かけ..というのももしかして初めてかも..麻里奈や友里は結構あるのに..(^-^;)



1998 3.10 いがいと使えるOCR
スキャナのおまけで付いてきた「読んでココ」というOCRソフト(新聞や雑誌などを画像としてスキャナで取り込み..それをワープロなどで使えるテキストデータに変換するソフト)がタコでほとんど使えないものだったのでがっくり来ていたのですが、いやそんなことはないはずだ..と新しいOCRソフトを買って使ってみました。T−ZONEで迷いに迷って選んだ、Panasonicの読取革命2.0(定価¥19800)というソフトです。これがなかなか使えるものだったのです。箱に書いてある文字認識精度 99.5%というのはちょっと大げさですが、新聞を取り込んで95%以上はいけていたと思います。95% だと私の誤字よりましかも(^-^;)
スクラップしてあった新聞記事をOCRで読み込んだものもUPしました。ローカル紙で私とお父さんの作ったIWMのホームページが紹介されたときのものです。でも私達の名前は一言も出てないのです..(^-^;)。



1998 3.5 三歳児検診
友里の三歳児検診は先月だっのですが、体調が悪くて行けなかったので、きょうの1歳6ヶ月検診に割り込ませてもらいました。友里はちょうど1歳6ヶ月の子達と同じくらい...その中でも小さい方だったかも...倍も生きてきたのにね..。
歯科検診では「おかあさん歯茎がちょっと腫れてますね」...といわれてしまいました(^-^;) 検診をしてくれたのは私の同級生の先生なんですけどね..彼もちょっと緊張してたのか虫歯の欄に20本と書いていたので、「先生、虫歯20本ですか?」と聞いたら「ああ..まずいまずい..」とあわてて直していましたヽ( ´ー`)ノ。(生えてる歯が20本だっのね、虫歯は0本です。念のため)



1998 3.4 すーぱー忙しお雛祭り
昨日はお雛祭りでした。でも朝から大忙しでした。午前中は銀行やお雛祭りの食事の材料などを買いに行き、午後からは麻里奈の参観日。参観日のあとは学級行事でクレープ作り。その間に学年委員会をかけもち(^-^;)。学校に持って行った荷物がすごかった..ホットプレート一台。ハンドミキサー一台..これは学級行事用。それにアイスボックス一個(ウーロン茶の缶が20本入っている。)とお菓子がスーパーの袋にいっぱい..これは学年委員会用。帰って来てからはお雛祭りの用意。おばあちゃんが海苔巻きといなり寿司を作ってくれるから、私の作ったのはローストビーフと筑前煮、菜の花とはまぐりのお吸い物。あと付け合わせのサラダそれに甘納豆入りの蒸しパンくらいなんだけど、6時に歯医者さんのお仕事も入っててなんだかわけのわからない忙しさでした。さすがに疲れて後かたづけは11時過ぎでした..ヽ( ´ー`)ノ



1998 3.3 少年と父の五輪ジャンプ
昨日の日本テレビ番組スーパーテレビで「少年と父の五輪ジャンプ」という番組をやっていました。
その少年は高橋竜二君といいます。今はもう24歳で札幌の歯科医院で歯科技工士として働いています。彼は生まれつきの難聴で補聴器を付けてもほとんど音が聞こえません。それでもスポーツが大好きだった彼は、星一徹のような父とスパルタコーチに鍛えられて、立派なジャンプ選手に成長したのです。
難聴の人は平衡感覚が悪く、風の音を聞くこともできないのです。でも彼は大倉山の90m級のジャンプ台を飛び、ワールドカップで何度も優勝した岡部選手に競り勝ち優勝したことも、あの天才ジャンパー船木選手といっしょに表彰台にあがったこともあるのです。
将来のことを考えて実業団でジャンプをすることをあきらめ、歯科技工士の道を選んだ彼は、惜しくも選手として長野オリンピックには出場できませんでしたが、テストジャンパーとして参加していました。
あのジャンプ団体戦..前半日本は4位でした。天候不良で競技中止も危ぶまれ、そのままでは日本はメダルなしで終わるところでした。後半競技を続けるかどうかはテストジャンパーの状態を見て決められます。...そこで彼はなんと131mのK点越え大ジャンプをするのです。テストジャンパーには何の記録も残らないけれど、後半日本が挽回して金メダルを取ったのもテストジャンパー達の頑張りがあったからこそといえるのです。彼のジャンプは記録には何も残らなくてもたくさんの人の記憶に残り続けることでしょう。





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